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2010年 10月 23日

『あまえる』ということについて


先ほどなにげなくツイッターで見た文章に、
思わず落涙してしまいました。

宮沢賢治『セロ弾きのゴーシュ』の読書感想文。
中村咲紀さんという女の子が、小学2年生で書いたものだそうです。

第47回全国小・中学校作文コンクール優秀賞受賞作品だというその文章ですが、
いろんな方が絶賛するように、その深い洞察力と分析力、
そして何よりも、自分自身に対する素直な姿勢に、思わず泣いてしまいました。

歳を重ねても、自分自身とうまく向き合えないし、
自分自身をいつまでも客観的に見れないあたしには、
素直に自分を見つめることができる咲紀ちゃんの「正直さ」がまぶしかったりします。

そんな咲紀ちゃんの感想文の一端を
引用してみたいと思います。





中村咲紀 「『あまえる』ということについて」

【掲載】
『日本語ということば -Little Selections あなたのための小さな物語』
作者: 赤木かん子 (ポプラ社/2002年5月 )

咲紀ちゃんの感想文の一部は、このサイトから転写しました。
MELLOW MY MIND
Something Orange

もし、次から引用する感想文について解釈が必要な方は、ぜひ上記のブログをご覧下さい。

***************
だれも気がついていないけれど、ゴーシュの心の中には、へんなものがたくさん入っています。
へんなものというのは、その人によってちがうけど、じこまん足だったり、つよがりだったり、がまんのしすぎだったり、色んなものがあります。そういうへんなものが心の中に入っていると、本当のじぶんがちゃあんと見えません。
ゴーシュは一生けんめいれんしゅうしているつもりだけど本当のじぶんがちゃあんと見えていないので、本当のれんしゅうができていないのです。本当のじぶんをちゃあんと見ないでどんなにがんばっても、まちがったがんばりかたしかできません。それは、本当のがんばりにつながりません。
けれども、きせきが起こります。

****************
 ゴーシュはあとになって、この時のことを「おれはおこったんじゃなかったんだ」と言っています。わたしもそうだと思います。
 ゴーシュは、本当は、本当のじぶんをしっていたんじゃないかと思います。でも、本当のじぶんはとてもひどいので、見ないようにしていたんだと思います。それなのに、かっこうにだめなじぶんを見せられて、そのだめなじぶんにカッとなって、そのむしゃくしゃをかっこうにぶつけてしまったんだと思います。

***************

 ゴーシュはひとりぼっちじゃなかったのです。下手でだめだと思っていたセロは、どうぶつたちのびょう気がなおるのでかんしゃされていたのです。ゴーシュの心があたたまります。それでゴーシュは、野ねずみに優しくできるようになったんだと、わたしは思いました。
 びょう気がなおってパンまでもらったのねずみは、鳴いたり、笑ったり、おじぎをしたりしてかえっていきます。のねずみは、ゴーシュの心をあたためにやってきたけれど、ゴーシュのやさしさで、のねずみの心もあたたまったんだと思います。
 これが、心と心をくっつけ合うということです。
 みんなひとりぼっちじゃないのはいいなあ。たすけ合うのはいいなあ。ゴーシュが、やさしいゴーシュにもどれてよかったなあ。と、わたしは思いました。

***************

わたしが、ようちえんの年中のまん中へんのころだったと思います。

「さきのこと、ずうっとだっこしていなかったから、だっこしてあげようか」と、おかあさんが言ったことがありました。いもうとのまきがへやにいない時でした。

 わたしは「いい」と言いました。

「どうして」

「まきがおかあさんにだっこしてほしいと思った時、いつでもだっこしてもらえるように、わたしはもうだっこしてもらわなくていいの、まきがだっこしてほしいと思った時、わたしがだっこしていたら、まきがだっこしてもらえないでしょう」

 おかあさんは、その時、一生けんめいな顔をして、わたしをだきしめてくれました。おかあさんは「この日をずっとわすれない」と言います。「さきがそんなにだっこしてほしがっていることを、この時まで気がつかなかった」と言います。

 わたしもぜったいにわすれないと思います。だって、その時のだっこが、わたしのおぼえているさいしょのだっこだからです。これよりまえのだっこを、わたしはおぼえていません。

******************
 わたしのようちえんのたんにんの先生は、わたしがつらいのをわかってくれませんでした。先生は、わたしがなくしものをしてないた時と、だれかにいじめられてないた時と、ころんでないた時にだっこしてくれました。わたしは、何でもないふつうの時に、だっこしてもらったことがありませんでした。わたしは、先生にだっこされてにこにこわらっているともだちが、うらやましかったです。わたしも、ないていない時にだっこしてもらいたかったです。

(中略)

 ようちえんにつくと、おかあさんは、ちょうどえんていにいた先生に、わたしがともだちとあそべないことをそうだんしました。すると、先生はおどろいた顔をして言いました。

「さきちゃんは、教しつでは、いつもおともだちとあそんでいるから、大じょうぶだと思いますけど」先生のことばがはっきりと聞こえました。

 わたしは、先生とおかあさんのはなしが気になって、あそんでいるふりをして、耳をすましていたのです(先生は、わたしのこと、見てないなあ……)。

 わたしは、先生は、わたしがともだちがいないのをしっていると思っていました。だって、先生は、年しょうの時も、年中の時も、ずっとわたしのたんにんだったのです。わたしのことを見ていたらわかるはずです。

「さきちゃんはおともだちがいません。何とかしましょう」と、本当のことをちゃあんと言ってほしかったです。でも、もし本当に気がつかなかったのなら、「さきちゃん、おともだちいないの?」とわたしにちゃあんと聞いてほしかったです。先生は、そのどちらもしてくれませんでした。わたしは、この時からこの先生を、わたしのことわかってくれないわるい先生だと思うようになりました。

*****************

じつは、わたしは、ようちえんの先生やともだちのことは、あんまり、思い出したくなかったので、わすれようと思っていたのだけれど、このごろ時どき考えます。ようちえんの先生は、わたしが、「だっこしてください」と言ったらにこにこだっこしてくれたのかもしれません。ようちえんのともだちは、わたしが、「ともだちになってね」と言ったら、ともだちになってくれたのかもしれません。わたしが心をきつくしていたから、ようちえんの時わたしは、だれともなかよしになれなかったのかもしれません。わたしは、じぶんがわるいのに、人をわるいとずっと思ってきたのかもしれません。そういうことに気がついた今、わたしは、とてもかなしいです。

 ゴーシュが本当のゴーシュにもどった時、わたしは、(めでたし、めでたしです)と言いました。でも、本当のゴーシュにもどったゴーシュが一ばん先にしたことは、かっこうに、「すまなかった」とあやまることでした。わたしは、ゴーシュも、今のわたしのようにかなしかったんだろうと思います。わたしのかなしさは、はんせいではなくこうかいです。わたしは今、ようちえんの先生にとてもわるいことをしたと、こうかいしています。

 本当のじぶんじゃない時は、じぶんじしんもつらいけど、まわりの人もきずつけて、まわりの人にもつらい思いをさせているのかもしれません。

 わたしは、もうこうかいしたくないと思います。わたしは今、本当のじぶんです。本当のじぶんをちゃあんと見て、そのじぶんをたいせつにしてなくさないようにしたいと思いました。

 わたしは、いつかようちえんの時の先生に会うことがあったら、「あく手をしてください」と言いたいと思います。その時わたしは心の中で、(めでたし、めでたしです)と、じぶんに言ってやろうと思います。

****************

 人は、みんな、心をくっつけ合って、生きていくのです。でも、くっつけすぎには気をつけて、みんな元気な時ははなれて、じぶんのことをちゃあんとするのがいいと思います。
 わたしは、がんばって大きくなります。

**************

以上、引用おわり。。。

あたしは、いま現在、咲紀ちゃんの書いた感想文の原文を読んでいないから、引用した順番などに若干間違いがあるかもしれません。

ほんとは、まだまだ引用したい文章はたくさんあるのですが、
いまは書ききれません。


ぜひ、上記にのせたブログで、『セロ弾きのゴーシュ』のどんな部分に、
彼女がどんな風に感じているのかをご確認ください。


こんな風に、自分に素直になれたら・・・・と心から思います。

by walkonmusic | 2010-10-23 21:52 | 落涙SONG


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